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2013年4月12日 (金)

第65回大会:研究発表・シンポジウム要旨

『リア王』における"Nothing"の演劇的表象 ― ルネッサンスの懐疑主義の伝統とシェイクスピアの独創性
土岐田健太
 本発表では、William Shakespeare (1564–1616)のKing Lear (1606)における独創性を考察する。シェイクスピアは材源の『リア王実録年代記』に"nothing"という言葉を付け加えている。ルネッサンス人文主義者モンテーニュの「自己批判精神」の系譜に位置づけられる『リア王』がオリジナルの"nothing"という言葉を用いていかに演劇にふさわしく改作されているかを論じる。

Belovedにおける"circle"表象の曖昧性
名和玲
 Toni MorrisonのBelovedにおいて、Setheの"rememory"という語が示すような記憶や語りのcircularityは、従来の研究においても指摘されてきた。しかし、作品中で用いられる"circle"に関する用語やイメージ自体から分析している研究は少ない。本発表では、Belovedにおける"circle"のシンボルに注目し、聖書的な解釈との関連を中心に、"circle"がもつ曖昧性が作品の中でどのような効果を与えているかを検討したい。

英文科の素姓を温ねる
舟川一彦、下永裕基、田村真弓、浦口理麻
 「英文学」というものが自然に存在する自明の実体では決してなく、様々な意図や目的、はたまた偶然の所産として歴史的につくられてきた概念的構築物だということは、少なくともここ数十年にわたる英米(そして日本)における英文学者間の議論によって、すでに常識となっている。だがこの議論は、実体でないものを対象とする難しさがある上に、それに係わった人々それぞれの大学内・学界内・社会内での利害や個人的感情と絡み合うものであることから、まだまだ乱暴な部分やフェアとは言えない部分を含み、総括の段階までは来ていないように思える。
 私(舟川)自身、『英文科の教養と無秩序』(2012)に収録されたいくつかの論考で、この議論の末端に関与しようとしたが、十分な精緻化と再検証の作業を行うには一人の力ではとても足りず、「英文学」の様々な側面をより専門的に見ることができる複数の人たちの共同研究が必要だということに思い至った。この共同研究は、今回の四人のメンバー以外の人々も巻き込んで、今後数年にわたる時間をかけて成熟させて行くつもりである。したがって、このシンポジウムは研究成果の発表というよりはあくまでも企画スタートのお披露目というつもりで行うものであり、今後発展する可能性のある問題を聴衆からも掘り出し、新しいメンバーを引きずり込むことを目的としている。
 今回、下永氏は英文学研究と英語学研究の微妙な関係の歴史的展開について、田村氏は英文学の中核的キャノンとしてのシェイクスピアの位置について、浦口氏はスコットランドの知的風土が英文学という学問の成立とどう関わり影響しているかについて、そして舟川は古典に代わって英文学が人文的学問の主役として浮上した第一次世界大戦前後の状況について話す。